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「中日シリーズ」第2ステージ初戦敗戦のショックを「ミッドナイト」で癒す

「中日シリーズ」第2ステージ初戦は、1回裏に中日ドラゴンズの先発投手、川上憲伸投手が、北海道日本ハムファイターズの四番打者セギノール選手に3ランホームランを打たれて、ほぼ試合の行方が決まってしまいました。

いわばボクシングの試合で第1ラウンド後半に強烈なアッパーカットを食らってダウンを喫し、9カウントで辛うじて立ち上がり、その後は必死に反撃を試みるも、結局序盤の劣勢を挽回するには至らず、第1試合は「判定負け」となってしまったという感じでしたね。

私自身は、テレビ朝日の試合中継放送を観た後、ラジオで監督談話などを確認し、ちょっとネット方面で情報収集した後に、午後10時半から始まるNHKの「スポーツタイム」で第1戦の反省をしているうちに、やはり敗戦のショックからかそのまま眠りの世界にトリップしてしまいました。

テレビをつけっ放しにして熟睡していたのですが、突然、妙にテンションの高い人の声がテレビ画面から聴こえて来て、しだいに睡魔から開放されました。

深夜零時から始まる「秋の夜長もさだまさし」という、いい意味でNHKらしからぬ、不定期特別番組だそうで、さだまさし氏が司会を務めて好き勝手放題に番組を進めることをウリにした(実際に、NHKではNGとされる企業名がいくつか番組に登場していましたが、担当するスタッフが始末書覚悟でこの番組に臨んでいる覚悟が伝わって来て好感が持てました)、昔のAMラジオ深夜放送の「ノリ」をテレビで再現した番組のようでした。

今回の放送は、NHK名古屋局からの生放送だったようで、スタッフや出演者は、やはり昨晩の日本シリーズ第1戦敗戦のショックを引きずって落ち込んだ雰囲気で番組が始まったのが、ちょっと興味深かったですね。

やはり、中日ドラゴンズの勝ち負けは、名古屋市民全体の1日の気分を左右するほど大きな影響力を持っていることを、改めて再認識させられました。

さて、この番組は公開生放送で、リスナーをスタジオに招いていたのですが、非常にユニークだったのは、その中に東海ラジオの名物女性アナウンサー、蟹江篤子氏が参加していて、なんと、NHKの番組の中で民法アナウンサーが登場して、リスナーからのお便り紹介コーナーをさだまさし氏と担当したことでしょう。

聴けば、さだまさし氏がまだ駆け出し時代、グレープというフォークデュオでデビューした際に東海地区でプロモーションに駆けずり回っていた時に、いちはやく彼らの才能に注目して、東海ラジオの深夜番組「ミッドナイト東海」で蟹江篤子アナウンサーがどんどん紹介してくれて、それを契機に全国的な人気に火が点いた歌曲が「精霊流し」だったとのこと。

彼にとっては、一生涯忘れられない“恩人”のようで、それでNHKのスタジオにも招いたのでしょう。

東海ラジオの蟹江アナといえば、1970年代から始まった東海地区独自の深夜放送「ミッドナイト東海」でDJあるいはパーソナリティを務めて、当時の若者たちに絶大なる影響を与えていた存在で、1975年に関東地方に住んでいた私が、中日ドラゴンズのラジオ中継放送が関東地方でも聴こえることを知って、「東海ラジオガッツナイター」を聴いた後に、

http://homepage3.nifty.com/TAMAGAWA/dra/nest/nestsw09.htm

引き続き同局の番組をそのまま聴き続けていることが多かったのですが、最終的には深夜放送の「ミッドナイト東海」に辿り着き、その番組にもハマっていたのでした。

この番組は、当時は東海地区のみで仕事をしていた出演者が、後に東京地区への進出を果たして、全国区の人気を獲得する人材を多数輩出した、まさに登竜門的な深夜番組で、1975年当時に私が聴いていたパーソナリティの中にも、笑福亭鶴瓶(このNHKの番組の蟹江アナのコーナーにも、鶴瓶“師匠”が電話で“飛び入り出演”するというハプニングもありました)や、兵藤ゆきネエが出ていて、その後の全国区的な活動をする前の彼らや彼女らの“過去”を知ることができた、貴重な番組でした。

1975年といえば、中日ドラゴンズが前年の1974年に打倒讀賣を果たしてリーグ優勝を勝ち取った翌年で、「目指せV2」を合言葉に、その年に急に力を付けて来た赤ヘル軍団、広島東洋カープと、熾烈なペナント争いを繰り広げていた年でした。

いわば、NHKテレビのちょっと“不良中年的”深夜番組のお陰で、私自身も1975年当時に熱狂的に中日ドラゴンズを応援していた時代に、いつの間にかタイム・トリップして、再び、第2戦に向けての鋭気を養うことができました。

ありがとう「ミッドナイト」放送!

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ビリーにハマール日本人

一昨日は、普通なら三連休の中日でしたが、とある事情で首都圏に留まって休日出勤をしなければならず、午後に有楽町方面に出掛けた後、無事それを終えたので、自分へのご褒美として、ビックカメラ有楽町駅前店でちょっとPC用品を買って散財することにしました。

ここのビックカメラですが、家電だけでなく、ワインやゴルフ用品など、さながら何でも売っているよろずや量販店的な色彩のお店で、中層階にはスポーツ用品売場が設置されていました。

PC用品を買ったついでに、エスカレーターでその中層階に降り立つと、何故か黒山の人だかりが。

よく見ると、エスカレーター脇の大型液晶ディスプレーに、今話題の「ビリーズ・ブート・キャンプ」の映像が流れ、そのディスプレーの正面には、店頭販売用のDVDと、オマケで付いてくる「ビリー・バンド」なる黒いゴムチューブでできた縄跳び紐が置かれてあり、たまたまフロアに立ち寄ったお客が、皆物珍しそうにその映像に見入っているのでした。

このところ、いろいろな媒体で紹介されているためか、そこに集まった人たちは、「これが噂のビリーか?」といった面持ちで映像を眺めていましたが、やはり、この映像作品には、人を惹き付ける何か、それも特に日本人に訴えかける何かが隠されているのではないかと、私も興味本位でしばらくその光景を観察していました。

ディスプレーの中のビリー「隊長」は、時に厳しく、時に優しく、叱咤激励の言葉を絶え間無く発しながら、人工的なシンセサイザーとリズムボックスで構成された軽快なダンスミュージックに合わせながら、せわしなく手・足・腰を動かして、ダンス・エクササイズに参加している「新米隊員」達を熱心に指導していました。

このシーンを見ているうちに、私はしだいに何か懐かしさみたいな感情が沸き上がって来たことに気付きました。

そう、1990年代初めにタイムスリップしたかのような、あのバブル時代の終末感のような感情が。

そして、何故、日本人が「ビリーズ・ブート・キャンプ」にこんなにも惹き付けられたのか、あの独特の電子音を聞いているうちに、しだいにその秘密がわかってきました。

もちろん、劇的な、とPRされているダイエット効果を期待して多数の人たちが購入したというのも大きな理由の1つでしょう。

最近は、ただ電動椅子に座っていれば乗馬運動をしているのと同じ効果が得られるので痩せられるとか、おなかに電動腹巻きを巻いているだけで皮下脂肪と贅肉が勝手にぷるぷる震えていつのまにかなくなってくれるというような、どちらかといえば気軽な形でのダイエット用品に傾いていた多くの日本人が、「こんな安易な方法で痩せてしまったら、お天道様に申し訳ない」という、日本人独特の儒教的な道徳観念からの反省からか、再び、「ビリーズ~」のように、真言密教の求道者的なダイエット運動に立ち返ってきたというのも、その顕著な理由の1つでしょう。

しかし、それにしても、今までほとんど身体を動かしたことのなかった運動不足気味の多くの日本人が、あのような超過激な体操を奨めるDVDを20万本以上も購入したという事実が、私にはなかなか信じられなかったのですが、ようやく1つの「仮説」を構築しました。

それはつまり、

“Back to the 1990’s”

ということなのじゃないか。

つまり、“ビリー”を、その当時のある象徴的な人物になぞらえて信奉しているのではないか。

そして、その人物とは、M.C.ハマー

今でこそ、彼は自身が信仰する宗教の牧師をやりながら、かろうじて糊口をしのいでいるようですが、バブル全盛当時の彼の勢いは凄まじく、お馴染みのWikipedia情報によると、「1990年発表の2ndアルバム『プリーズ・ハマー・ドント・ハーテム(Please Hammer Don't Hurt 'Em。※勝手に意訳すると、「ねえ、ハマー様。後生だから奴らにはちょっかいを出さないでおくれやす」)』が世界中で累計1,000万枚以上を売上げ、音楽史上に残るメガ・ヒットを記録」し、1991と92年には東京ドームと大阪ドームで来日公演も果たし、両ドームで開催された公演は、いずれも超満員でチケットの入手が非常に困難だったほどです。

私も、さる知人から「今度M.C.ハマーの来日公演があるんだけど、チケットが取れたら一緒に行く?」と誘われ、別に彼に特別な関心があった訳ではなかったのですが、冥土の土産話に、ハマーのダンスを一度は見ておくのもよいかなと思い、その誘いに同意したのですが、やはり超満員でチケットが入手できず、やむなく断念した“苦い?”記憶があります。

その後、バブル時代の終焉と歩調を合わせるかのように彼のブームはあっと言う間に過ぎ去り、M.C.なしのハマーと改名したり、さらに再びM.C.ハマーに戻したりと迷走し、また、新たなダンス・スタイルへのチャレンジもしたようですが、結局は自己破産まで経験して、今日ではただのカニダンスおじさんになってしまいましたが、ラップとダンス・ミュージックに与えた世界的な影響を考えると、その功績は今でもおおいに賞賛されるべきものであったといえるでしょう。

さて、そのように、全盛時には世界のダンス・シーンを変えたともいわれた彼の往時の面影は、某国産自動車メーカーN社の今年の春に流れたワゴン車(ハイウェイ・スター)CMのBGMで流れる“U Can't Touch This(のデジタル・リミックス・バージョン。※またまた勝手に意訳すると、「テメエなんかにゃ指一本触れさせないぜ」)”でしか窺えませんが、それでも、あの独特のダンス・ミュージックのイントロがテレビ画面から流れるだけで、当時を知る、いまや中高年世代に差し掛かった30代、40代世代は、あのバブル当時の郷愁が蘇ってくるのか、何となくそわそわしだして注目してしまうので、そのことを狙って、あの曲がCMミュージックとしてリバイバル採用されたものと思われます。

そして、あの曲で思い起こされるのが、ハマー独特のダンス・スタイルです。

彼のあのダンスは、あまりにもせわしなく全身を動かす激しいものだったために、彼の信奉者がそのダンスに付いて行けないだけでなく、ライブ・パフォーマンスのクライマックス場面では、ハマー本人でさえもそのミュージックに付いて行けなかったという逸話もあったそうです。

まあ、こういう、“先生”に付いていけないほどの激しくキツイダンスのほうが、むしろありがたみが増すということになりますが、私は、現在多くの日本人に滅茶苦茶もてはやされている「ビリーズ・ブート・キャンプ」に、

あの、ブラック・ミュージックでありながら、どことなく日本人の土俗的な「祭」の心を揺さぶられる、

“U Can't Touch This”の

http://listen.jp/store/album_lim0094631039058_v.htm

♪ドン  ドコ  ドン   

ンチャチャ ンチャチャ ンチャチャ (ホイ ホイ)

という、独特のビートを奏でるダンス・ミュージック的要素とともに、ハマー本人も付いてこれないと称された極端に激しい動きが要求されるダンス・ミュージックと同じような“臭い”を感じたのでした。

古来、といっても1990年代の“ハマー”以降ですが、日本には、「我々日本人が自堕落な生活をこのままずっと続けていると、やがて黒い肌の巨人の神様がやって来て、全てを破壊しながらも我々に救いの手を差し延べてくれる」という信仰があり、21世紀初めには、その役割を、ボブ・サップが果たしたのですが、飽きっぽい日本人は、その黒い肌の巨人が、実は自分たちの期待していた“神様”ではなかったとわかると、今度は手の平を返すかの如く一斉にその頭を叩くという、非常に熱しやすく醒めやすい、お馴染みの習慣も保持しているのでした。

これをマスターしたら、今度こそ自分のメタボリックな肥満生活にピリオドを打ってくれるのではないかと期待して、黒い肌の巨人が放つ、厳しくも暖かい叱咤激励を求めて、あの「踊り念仏的超過激運動」に、多くの日本人が惹き付けられ、今日に至っているのでしょう。

☆  ☆  ☆

というわけで、このところ、私が生観戦したりテレビで観戦したりすると、13日のハマスタでサヨナラ負け、昨晩16日は魔さかの岩瀬の大炎上負けと、ロクなことがなかった中日ドラゴンズのゲンを担いで、本日はストイックに職場で残業しながらWeb観戦をしていましたが、1点差できわどく勝った上に、岩瀬もリベンジ登板をなんとかこなし、讀賣も負けてくれたので、1日で首位を奪回することができたようです。

VICT0RY!

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交流戦直前の「温故知新」ということで

交流戦直前の「温故知新」ということで、昨年5月の自分の書き込みを思い出してみました。

http://ryuunosu.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/index.html

なるほど、交流戦出だしの5月9、10、11日の札幌ドームでの対日ハム戦ではいずれも延長戦に突入して1勝2敗という悔しい結果

http://dragons.cplaza.ne.jp/game/backscore06/score060509.htm

http://dragons.cplaza.ne.jp/game/backscore06/score060510.htm

http://dragons.cplaza.ne.jp/game/backscore06/score060511.htm

となるも、地元ナゴドに戻って対東北楽天戦で1敗した後に2連勝、続く対オリックス戦も3連勝と「撃破」し、累計5連勝で意気揚々と、5月19、20、21日に千葉マリン球場に乗り込んだところ、幕張の暴風雨並みの浜風と砂埃という「大自然の脅威」を味方につけたマリーンズ軍団に、ひ弱な無風ドーム温室育ちの我が名古屋っ子集団

***

その昔、1970年代後半に、東海ラジオの深夜放送「ミッドナイト東海」の名物パーソナリティだった宮地佑紀生、当時は宮地由紀男と名乗っていて、愛称「宮様」の出した中京地区限定ヒット曲「♪佳境に生きてる(ジャン、ジャン)名古屋~っ子」という歌詞のロック調フォーク演歌とでもいうような「名古屋っ子」という歌曲がありましたが、Wikipediaによると、「1976年にはバンド『無有(むう)』(おっと、ここにも、菊池桃子と同様に『ムー』に執り憑かれた人が…。)を結成し、『名古屋っ子』などの歌を歌ったが全く売れなかった。」と言われてしまっているので、ナゴヤマニア、ミッドナイト東海マニアしか知らんネタでしょうね。

***

は敢え無く三タテを食らい、

http://dragons.cplaza.ne.jp/game/backscore06/score060519.htm

http://dragons.cplaza.ne.jp/game/backscore06/score060520.htm

http://dragons.cplaza.ne.jp/game/backscore06/score060521.htm

「また、昨年(2005年)の悪夢の再現か!」

と思われたところを、その後は何とか戦力を立て直し、最終的にはパ・セ両リーグ全体で4位という好成績を収めたのでした。

一方、交流戦が開始された時点ではセ・リーグの首位を快走していた讀賣ジャイアンツは、何の因果か交流戦で怪我人が続出したうえにパ・リーグ各球団の逆襲に遭い、ボロボロに沈んだため、交流戦明けには中日ドラゴンズがセ・リーグ首位に躍り出て、そのまま一度もその座を譲ることなくペナントレースを制したのでした。

さて、今年の交流戦は、果たしてドラゴンズにとって吉と出るのか凶と出るのか、その予想は、まるで「toto BIG」を当てるような難しさともいえるでしょう。

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「魏・呉・(越)・蜀」の「三(+一)国」同舟体験記

昨日までは、リアルな世界での応援活動が多忙を極め、なかなかブログを更新できませんでしたが、一応、ドラゴンズにとっての関東地区開幕三連戦を全て見届けて気が済んだので、心安らかな面持ちで、水道橋駅から総武線の新宿方面行きで帰途に着いたところ、途中の信濃町駅からは、「東京ヤクルト対阪神戦」の試合終了時間と重なったためか、呉越同舟ならぬ、「竜・巨・燕・虎」四球団のファンが、図らずも同じ電車に乗り合わせる状況となりました。

さて、四球団のファンで混み合った車内を見渡すと、それぞれのファン気質が如実に窺えて、なかなか興味深かったです。

まず、中日ドラゴンズファンは、関東では少数派ということもあり、快勝の余韻を楽しむかのように、人知れず静かに座っております。

讀賣ジャイアンツファンは、あれだけ球場では数を頼んで威勢がいいのですが、負けた時にはその気配を消すのが非常に上手い集団と化します。

さて、信濃町駅で電車に乗り込んで来た集団では、やはり阪神タイガースファンが圧倒的に多いのですが、まるで昨晩の試合を勝ったかのような賑やかさで乗り込んできます。

一方、地元なのに少数派の東京ヤクルトスワローズファンは、試合に勝ったのにもかかわらず、謙虚な笑みを浮かべながら静かに乗車してきました。

シーズン前の大方の予想では、この四球団辺りがペナントレースの覇権を争うとともに、クライマックスシリーズへの出場を目指してしのぎを削るものと思われていますが、この、「竜・巨・(燕)・虎」の「三(+一)国時代」で、今季の天下を取るのはどの球団になるのでしょうか。

ちなみに、中国の「三国時代」で覇権を争った「魏・呉・蜀」は、結局、それぞれの国の主君は共倒れとなり、新たに西晋という国が中国を統一したようですが。

☆  ☆  ☆

東京エッグから水道橋駅方面に向かう道すがら、一緒に観戦した東山にしこ氏と応援歌談義になり、私はイ・ビョンギュの応援歌が歌いやすくてなかなかよいという感想を述べたところ、「あの歌は短調(マイナーキー)なのに楽しそうだ」というにしこ氏のコメントを聴いて、小学校の音楽の授業で、「基本的には、短調の曲は寂しかったり悲しかったりする印象になるが、唯一の例外は『森の小人』(山川清作詞・玉木登美夫補作・山本雅之作曲の♪森の木陰でどんじゃらほい、という歌い出しの曲)である」と習った話を思い出しました。

確かに、イ・ビョンギュの応援歌もマイナーキーの曲ながら、威勢がよくて楽しそうなメロディですよね。

したがって、マイナーキーなのに賑やかで楽しそうな、日本三大歌曲は、

『森の小人』と『イ・ビョンギュの応援歌』

そして、ザ・リリーズが昭和50年に歌って大ヒットした

『好きよキャプテン』(松本隆作詞、森田公一作曲、萩田光雄編曲)

といえるでしょう。

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♪Yoh ah key noh key gee といえば

「夜明けの刑事」のエンディング・ソング、『でも、何かが違う』(作詞・作曲 マチ・ロジャース、編曲 あかのたちお)の作詞・作曲者(ということになっている)マチ・ロジャースは、かの真性ロック・グループ、バッド・カンパニーの伝説のボーカリスト、ポール・ロジャースの当時のかみさんで、クレジット上は日本人のマチ作曲となっているが、本当の作曲者はポールだったそうです。

何でも、「夜明けの刑事」の番組スタッフとポールがもめてしまったため、頭に来てクレジットを奥さんの名前にしちゃったとのこと。ちなみに奥さんは曲は書かなかったそうですので、ポールが作曲者というのは間違いないところでしょう。

なお、「夜明けの刑事」

http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/lineup/d0169.html

は、オープニングのタイトル・ミュージックは星勝作曲のハードボイルドっぽいインストゥルーメンタル、さらに、ドラマ中の主に尾行&裏取り捜査のような地道な印象を受ける場面で挿入されるのが、“バド・カン”の渋いR&B調“Yoakeno keiji”、そしてエンディングが鈴木ヒロミツの叙情溢れるロック・バラード(ただし、第1クールは、もう1人の俳優兼業“歌手”であった、石橋正次の『夜明けの停車場』ならぬ『夜明けの街』でしたが)と、ロックテイスト溢れるサウンド・トラックで構成された番組で、ドラマの出来としても非常にすばらしかったのですが、裏というか、表に「銭形平次」という超人気時代劇が放映されていたため、視聴率的にはかなり苦戦していたそうですが、全部で111話も続いたのですから、大いに善戦したともいえるのではないでしょうか。

表番組が時代劇&捕り物帖という「王道」だったからこそ、あえて「反逆の象徴」であるロック人脈が結集して番組を盛り上げようとしたともいえますが。

そういえば、若者向けの刑事ドラマの元祖「太陽にほえろ」(1972年7月放映開始)も、テーマミュージックは元スパイダースの大野克夫の作曲、演奏はPYG(後の井上堯之バンド)というロック人脈でしたね。

井上堯之バンドは後にフリーウエイズを経て、大野克夫バンドとしてBGM制作を続けたそうで、元々、当時はほとんど無名に近かった大野克夫を起用するように進言したのは、第1シリーズのメインキャラとして、当時の若者に絶大な人気を誇っていた萩原健一(ショーケン)だったそうで、そのように画期的なロック人脈がこのドラマに起用されたのは、GSのカリスマであったショーケンの貢献度が非常に大だったことになります。

ところで、この「太陽にほえろ」のメイン・テーマですが、演奏時間はたった1分強なのに、ロックとしての音楽的要素が見事に凝縮されていいますね。

まず、いかにもロックバンド調の強烈なインパクトを残す「イントロ」で始まり、次に、テクニック的にはほとんど限界に近い単音高音部による、踏切の警報機を想起させるようなエレキギターの超絶カッティング・ソロ(実音をよーく聴くと、若き日の井上堯之氏の苦労がよくわかり、思わず微笑んでしまいますよ)が掻き鳴らされ、その後すぐに軽快なサックスソロ(あれだけ印象に残る演奏ですが、バンドのメンバーではなく、無名のスタジオミュージシャンが担当していたそうです。たしかに、ここだけはロック調というよりは、ジャズ系の匂いがしますからね。なお、当時はまだクロスオーバーとかフュージョンという音楽ジャンルは確立されていなかったと記憶していますが)に引き継がれ、「間奏」は、やはり当時のロックの「王道」だったハモンド・オルガンのソロを大野克夫が受け持ち、その後は再びサックスに主旋律がバトンタッチされた後に、もう一度エレキ・ギターの単音高音部のカッティング・ソロが展開された後、「エンディング」は叙情的な低音部エレキ・ギターのトレモロで終わるという、よくぞたった1分間強でこれだけの「ロック要素」を詰め込んだものだと感心されます。

そして、そういう「太陽にほえろ」で確立された、若者向け刑事ドラマのテーマミュージック=ロックという図式が、「夜明けの刑事」にも継承されたことになります。

当時、私は「夜明けの刑事」全編のほとんどを視聴した記憶があり、主演の坂上二郎(この人も元々は歌手志望者で、コメディアンになる前には、日曜昼にNHKで放映される超長寿番組「のど自慢」に出場したほどだった!)の「刑事コロンボ」を思わせるとぼけた風貌の中に秘めた、「スッポンの鈴木」と異名をとるほどの執念深さと人情味溢れる演技に、それまでの「お笑いの(元・コント55号としての)ジローさん」とは別の面が窺えて、結構熱心に観ていました。

そのうえ、ドラマの全編にこれら珠玉のミュージックが流れていたので、「夜明けの刑事」は非常に新鮮な印象の刑事ドラマだったという記憶がありますね。

ただし、「新・夜明けの刑事」、「明日の刑事」という形で続編が制作される頃になると、やはりマンネリ化に陥ってしまった印象は避けられず、しだいに観なくなってしまったように記憶しています。

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モップスの思い出といえば

モップスの思い出といえば、まずは中学生の頃、1970年代初頭に、ませた同級生がクラスのレクリエーションで「月光仮面」を歌い、それがモップスというロックグループの歌であることを知ったのが最初でしたね。

その同級生がアカペラ(当時はカラオケは存在せず)でその歌を歌うものだから、なんか非常にシュールでシャウト系の歌だったような記憶があります。

実は、テレビドラマの「月光仮面」が放映されていたのは1960年代初頭ですから、それから約10年後の出来事でしたので、元歌の主題歌はほとんど廃れていたのでした。

したがって、私はモップス版「月光仮面」をその当時に聴いた後、遥か後になって再放送の「月光仮面」テレビドラマの主題歌を聴いたことになり、こちらを初めて聴いた時はやけに古臭い歌だなと思った記憶があります。

そして、高校生の頃が1970年代半ばで、当時はとにかく夜から深夜にかけてAMのラジオ放送を聴くのが若者たちの間で流行っていて、ニッポン放送の「日立  ミュージック イン ハイフォニック」という、放送時間30分間のほとんどを特集ミュージックのかけっ放しという番組があり、ある時の特集が、「吉田拓郎が楽曲を提供した歌手の特集」というもので、現在、ちょっと変な意味で話題を集めている森進一が歌った『襟裳岬』や、かまやつひろしの『我が良き友よ』や『シンシア』などと一緒に、モップスが歌う『たどり着いたらいつも雨降り』(作詞・作曲 吉田拓郎)が流れ、まさにノックアウトされました。

あと、当時流れていたのが、『晴れ  時々  にわか雨』(作詞 阿久悠・作曲 星勝)で、こちらもストーリー性のある、なかなかの名曲でした。

モップスの解散が1974年で、TBS系列で大映テレビ製作の異色刑事ドラマ「夜明けの刑事」の放映開始が1974年の10月(ということは、中日ドラゴンズの20年振りのリーグ優勝とも重なり、鈴木ヒロミツ氏にとってはいろいろな意味で“転機”だったことでしょう)なので、モップスの解散とほぼ同時期に俳優に転向したんでしょうね。

モップスの音楽性は業界では高く評価されたものの大ヒット曲には恵まれず、解散の理由は経済的なものが大きかったんでしょうね。

かつて、鈴木ヒロミツ氏がテレビのバラエティ番組に出演した際に、若い出演者や視聴者に対して、「昔、売れないバンドやってました」という自虐的な自己紹介をしていたのを観たことがありましたが、厳しい芸能界で生き残っていくための苦渋の選択だったのでしょう。

つまり、バンド・ビジネスには非常に多くのスタッフがかかわる訳で、うまくいっている時はそれだけの人員の食い扶持を稼いでくれるビッグ・ビジネスになり得る訳ですが、それだけに維持費も莫大なはずで、モップスが放った“中ヒット曲”だけでは、しだいにバンドを維持していくことが困難になったのでしょう。その点、俳優の場合は、基本的には本人とマネジャーの生活を支えるだけのギャラを稼いで、“上がり“を事務所に納めれば何とか暮らしていけるので、経済効率性はバンドより高いといえるでしょうね。

ただし、バンド解散後も音楽活動は細々と続けていたようです。このドラマ・シリーズで歌われた、

「夜明けの刑事」のエンディング・ソング、『でも、何かが違う』(作詞・作曲 マチ・ロジャース、編曲 あかのたちお)

「明日の刑事」のエンディング・ソング、『愛に野菊を』(作詞 岡田富美子 作曲 マイケル・ホルム 編曲・あかのたちお)

の2曲は隠れた名曲といえ、鈴木ヒロミツ氏の熱唱を聴くことができますが、これら2曲は必聴です。

現在、「モップス」で検索するとベストアルバムCDなども入手できますが、もう1つのお薦めが、鈴木ヒロミツ氏がソロで歌った上記2曲が収録されている「刑事魂  刑事ドラマソング・ベスト2」です。

鈴木ヒロミツ氏のボーカルは、決して上手いという印象ではありませんが、何とも言えない味わいがあるんですよね。これを機に、是非とも「夜明けの刑事」(正編・新編)&「明日の刑事」のサウンドトラックをまとめて発売してほしいものです。あと、上記2曲をカラオケにもね。

☆  ☆  ☆

ところで、彼が熱狂的な中日ドラゴンズファンであることを私が知ったのはごく最近でしたが、実は、1980年代には、東海テレビの「スーパードラゴンズ」という、中日ドラゴンズ応援番組の司会までをも務めていたほどの熱狂的なファンであったことさえも知りませんでした。

3月15日付け「東京中日スポーツ」の第18面(芸能面)では、鈴木ヒロミツ氏のエピソードが紹介され、「スーパードラゴンズ」番組出演当時のインタビューでは、

「先生に逆らうのが好きな子供だったから、(東京の中日ファンというのは)それと似たようなものかもしれない。周りの人と違うチームを応援するというのはね。」

という熱いメッセージを述べていたそうです。

これこそ、地元出身者以外の中日ドラゴンズファンの心の叫びであるとともに、真のロックスピリットを持ったシンガー、鈴木ヒロミツ氏の生き様の表明ともいえるでしょう。

Hey! Keep on rolling HIROMITSU forever!

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「ハケンの品格」最終話と、中日ドラゴンズ「ノリダア」と「ケンシン」、の行方ごった煮考

昨日の「ハケ品」は、出だしで、森ちゃんが春子をかばって自分が東海林にプロポーズされたことにして、「それが何か」という春子の決めゼリフを替わりに発したのが面白かったですね。

いよいよ、最終話にはスーパー派遣社員の主役の座を美雪に譲って、春子は木枯らしとともに去って行くという伏線なのかもしれません。

ただし、今回の派遣先に対しては、春子ははかなり後ろ髪を引かれながらのエンディングとなりそうですが。

あと、大前春子は犬の訓練士の資格も保持しているとのことでしたが、その割にはクルクルに対しておっかなびっくりで接しており、結構シリーズ最後の方では、大前春子(と、篠原涼子本人)にもいくつかの弱点、つまり、イラストやクルマの整備(と、犬の扱い)が苦手であることが露呈されてしまいましたが、それはそれで、かえって好感度をもたらす結果となりましたね。

一方、恋の行方は、春子にこっぴどく振られた東海林は、実は入社以来ずっと東海林のことを憎からず思っていた黒岩の愛にほだされ、最後は二人がくっつくのかもしれないですね。

この点については、バレンタインチョコの回で、黒岩は義理チョコを東海林に渡す振りをして、実は「本チョコ」を渡したのだが東海林はそれに全く気付かず、「本チョコを買うなら、例のチョコレート工房のを買ってね」と言われて、ちょっと複雑な表情を浮かべていましたものね。

ところで、黒岩を演じている板谷由夏は、最近実生活で結婚を披露してちょっと話題になっていますね。

この人も芸歴は案外長いそうで、かつては、「DA・YO・NE」という、EAST END×YURIというユニットがリリースしたヒップホップ系ラップミュージックが1990年代半ばに一世を風靡したことがありましたが、その「地方版」がやたらと登場して、九州版五匹目あたりのどじょうソングを歌うユニットとして、博多華丸(当時は鶴屋華丸)やおたこぷー(当時はおタコ・プー)と共に、SOUTH END×YUKAとして、シングル「SO・TA・I」もリリースしたそうです。

一方、森美雪は果たして往年の大映テレビドラマのように里中とくっつくのか、そこについては確信が持てませんが、何か。

また、最後にいろいろと舞台裏が明かされるのでしょう。

大前春子は年齢不詳とのことですが、実は東海林(年齢は2歳上ですが)、里中、黒岩、一ツ木たちとほぼ同年代であり、つまり同期であったこと。

そして、タブラオのママは、かつては赤坂あたりの高級料亭の女将かなんかで、<S&F>社の役員である大滝秀治扮する謎の老人と懇意だったということで、今回の「ハケン弁当」の企画が、トップの承認をすんなりと得られた理由が明らかにされるのではないかと思います。

まあ、上記の予想は、全て裏取りなしのたんなる推測にすぎないことをあらかじめお断りしておきますが。

***

ところで、中日ドラゴンズのオープン戦の成績は、中村ノリ以外は打撃陣に貧打が目立ち、このままの状態が続くようでは、中村ノリをすぐにでも一軍に登録したいというのが落合監督の本音でしょうね。

元々、落合監督は、プロ野球選手は技量を発揮してなんぼの存在であり、人間性については、起用のさいにはいっさい考慮しないと思っているはずで、私もプロならばそれでいいと思っています。

それは、中日ドラゴンズにしても、あの選手、この選手というように、人間性を物差しにしていたら、ねえ…。

いわば、ライバルのスパイク(バレエ界でいえばトウシューズに相当)に画鋲を入れてでもレギュラーを勝ち取るべきであるというのが、プロの世界の掟であるともいえるからです。

つまり、実力のみが評価の基準でしょう、プロ野球選手はね。

***

さて、「中スポ」と「トーチュウ」で連載されている、杉下茂氏の連載「伝える」第1部は、本日でいったん一区切りを付けるとのことですが、昨日の中里篤史投手を「鈴木孝政二世」になぞらえ、本日の「タカマサ論」に結び付けていましたが、杉下氏と川上哲治氏のライバル関係と、鈴木孝政氏と長嶋茂雄氏のライバル関係の対比を挙げていましたね。

私も、鈴木孝政が実質上の初登板を果たした1974年(その前年は、杉下氏が語ったように、対大洋ホエールズ戦の1戦だけに登板した直後に肩か肘を痛め、シーズンを棒に振ったように記憶していますが)の対讀賣戦のことはよく記憶しています。

たしか、いきなり王、長嶋のONコンビを快速球で連続三振に斬って取るという鮮烈なデビューを飾り、その名を一躍球界に轟かせ、その年の貴重な新戦力として、20年振りのリーグ優勝にも貢献したのでした(ちなみに、右のタカマサとともに、この年左の速球派中継ぎ投手として優勝に貢献したのが、現在ドラゴンズの「査定担当」として鋭い視線のメガネが印象的な竹田和史氏です)。

そのシーズンの、その後の鈴木孝政対長嶋茂雄の対戦については、実は私は全く記憶していないのですが、長嶋もその年の初めに密かに引退を決意していたそうで、これから球界を背負って立つであろう「逸材」に対して、最初の打席は敢えなく三振に斬って取られたが、何としてでも「プロの洗礼」を浴びせてやろうと人知れず研究と工夫を重ねた結果、彼が速球と変化球の投げ分けがあまり得意でないことを見抜き、速球は自分の動体視力の衰えから判断するととても打てそうにもないと割り切り、変化球だけを待っていたところにおあつらえ向きのカーブがやって来たので、「よーし」と大声を挙げて、後楽園球場のレフト中段に狙い打ちのホームランを放り込んだのでしょう。

ちなみに、杉下氏は、そのシーンについて、「先輩捕手のサインに首を振れなかったのではないかと思う」と、彼をかばっていますが、その当時の主戦捕手(控え捕手は新宅氏でしたが、“目玉“の「巨人戦」だとすると、たぶん主戦捕手が受けているはず)は、誰あろう、“ミスター我田引水”木俣達彦氏であったろうと思われます。

http://ryuunosu.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_ca1f.html

ということは、彼のリード(配球)にも問題があったことになり、そのために鈴木孝政は近藤貞雄ヘッド兼投手コーチに散々耳を引っ張られて(うーん、あの耳は思わず引っ張りたくなる形状をしているよなあ。でも、彼は千葉県立成東高校という、成東地区の有名進学校の出身で、あの耳は賢さの証明でもあったと思われますが)お説教を2回も食らったことになるわけで、ちょっと気の毒ではありますが、まあ、その後速球派から技巧派投手に転身して長寿命の投手として球界に生き残れたのだから、そういう彼の“やられキャラ”としての性格は頭脳派投球術の源泉ともなったのでしょうから、案外、「人間万事塞翁が馬」といえるのかもしれませんね。

ところで、杉下氏と川上氏のライバル関係は10年以上続いた同等の関係なので、最後に対戦した年にはお互いが衰えを感じていたはずで、杉下氏が、最後の年の川上氏との対戦の記憶が残っていないというのはもっともな話。

一方、“新米”鈴木孝政が、憧れの存在でもあった“老兵”長嶋茂雄との最後の対戦をしっかりと記憶に刻み付けているというのは別次元の話と捉えたほうがいい、と私は思いますけどね。

***

一方、「トーチュウ」第4面の「セブンアイ」では、同コラム連載陣の1人ねじめ正一氏(実は、十数年前に、彼が所属する「ファウルズ」という、長嶋茂雄が名誉監督を務める名物草野球チームと、当時私が勤めていた会社の草野球チームが練習試合で対戦したことがあり、私も人数合わせとしてセカンドあたりで出場したことがあるのですが、その試合で同僚がファーストゴロを打って、ファーストの守備についていたねじめ氏と交錯し、あわや乱闘になりかけた「事件」がありました。「詩人と聞いていたが、随分と荒っぽいプレーをするな」という、その同僚の言葉が印象に残っています)が、杉下氏の連載に触れ、その情熱と話の巧さを絶賛していました。

それを読んで気付いたのですが、杉下氏に、「ケンシンにフォークボールを伝授してやってほしい」と、昨シーズンの秋キャンプから落合監督が何回も依頼しているのは、たぶん落合監督もケンシンの“勤続疲労”に大きな不安を感じており、それをカバーするためにフォークを教えてほしいという「親心」のように感じました。

でも、結局ケンシンは、そういった落合監督の親心や杉下氏の教えを「時期尚早」と感じているのでしょう。

ケンシンにも超一流投手としてのプライドというか、意地があります。

彼からすれば、速球とカーブとカットボールのコンビネーションで打者を牛耳れるうちはそのスタイルを貫きたい。

それが、たとえ明治の大大先輩からの助言だったとしても、まずは自分の美学を貫き通したい。

たぶん、そういう男だと思いますね、ケンシンは。

そういう、一見無骨とも思われる意地を張るのも、立派な「明治魂」だと私は思います。

私は、近年のケンシンの調子を計るバロメーターは、阪神タイガースの金本選手との対戦にあると思っています。

2004年と2006年は、真っ向勝負を挑んで、重要な場面ではほとんど打ち取っていました。

それは、対戦上の通産打率・打点や被本塁打数がどうのこうのというような「数字」とは全く無縁の、真に重要な、ここぞの場面で投げ勝つかどうかのみが大切なのです。

が、2005年の後半、ケンシンは金本選手との対戦において、明らかに自信を喪失していました。

したがって、今年のケンシンの本当の調子を占うには、金本選手との対戦を待つしかないと、私は思っています。

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「ハケ品」裏モノ検索ヒットに

「ハケ品」裏モノ検索ヒットに気をよくして?  全然関係ないですが、中日ドラゴンズ「中村王国」建国記念を祝して、中高年にはちょっと懐かしいよゐ子のための童謡をもとに、替え歌を作ってみました。

これでドラゴンズファン以外のご新規さんは、ちょっと“引いて”くれることでしょう。

我ながら意地が悪いなあ。

題して、「三匹の中村」

もちろん元歌は、「中村」の替わりに子ブタちゃんを入れたものですが。

♪Boo! Who? Ooh!

Boo! Who? Ooh!

三匹の中村♪

♪一番上はBoo!

Boo!Boo!Boo!の文句言い

http://dragons.cplaza.ne.jp/member/07member/player.html?205

♪二番目はWho?

Who?Who?Who?で誰だっけ?

http://dragons.cplaza.ne.jp/member/07member/player.html?56

♪一番下はOoh!

Ooh!Ooh!Ooh!の甘えん坊

http://dragons.cplaza.ne.jp/member/07member/player.html?51

♪Boo! Who? Ooh!

Boo! Who? Ooh!

三匹の中村♪

オソマツでした。

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年末進行という言葉を

ご存じでしょうか。

このところ、心に浮かぶよしなし事は多々あれど、年の瀬の慌しさに紛れてそれをWEBの浮舟にまとめて載せる暇がさすがにありませんが、その割には多くの方々がこのサイトを訪れていただいているようで(?)、うれしい限りです。

さて、普通、何か新しいことを始めるのはよく元旦からといわれますが、天邪鬼な性格のためか、突然トレーニングを始めることにしました。

さる(といっても朝倉ケンタ投手ではありませんが)、熱狂的な中日ドラゴンズファン、それもアンチと肯定派両方のタツ●ミファンを取り込んでいることで有名なサイトの、あるWEBマスさんが挑戦した「ビリーズブートキャンプ」に対抗したわけではありませんが、学生時代に、体育会系的文化系部活(まあ、最近流行の言葉でいえば「のだめ系」)に参加した経験があるワタシには文化系のトレーニングがふさわしいということで、川嶋隆太教授監修の「脳トレ手帳」を始めることにしました。

この手帳ですが、例のNintendoDSなどで流行った「脳トレ」を手帳形式でやるというのがミソで、DSのを私も一時やりましたが、どうも「やらされ感」が強くて、結局途中で断念した人が多いと思います。

それに、DSでは、「音声認識」機能を使って文字の色を答える演習があるのですが、これで「キイロ」と発音すると「お前の発音が悪いので今の答えは×」と機械に言われる人たちが非常に多かったそうで、私もそれにむかついていた一人でした。

それに比べると、手帳形式だと、いろいろと自分独自の工夫ができるので自由度がありますし、スケジュールを管理する手帳は別に愛用品があるので、手帳というよりはワークブックとして使おうという目的で購入しました。ちなみに、日付を記入する日記欄は「自由記入式」になっていて、いつでもスタートできて途中で中断してもよい「親切なつくり」になっています。

この手帳に入っている演習としては、「音読」やら「V-CATあるいはクレッペリン検査モドキの計算」やら「脳にいいコラム」やらと、いろいろと盛りだくさんですが、「毎日の食事を記録して記憶する」という演習が案外ユニークで使えると思いました。

毎日食べるメニューを、朝昼晩と記録し続けて、「週末テスト」でそれを思い出すというもので、私はテストは好きではないので週末テストはやらないと思いますが、記録をつけてみるとこれは案外面白いものであると実感しました。

さて、トレーニングの成果ですが、1週間ほどたちましたが、まあこういうものは効果測定が難しいでしょうね。

DSでは、一応診断テストによって「脳年齢」の判定をしてくれましたが、それで脳力が上がったかというとよくわからなかったというのが実感でした。

ただたんに、そのテストをうまくやる能力が向上したという感じでしたから。

元々「脳トレ」は、主に高齢者の認知症をはじめとする脳機能の低下等を防止したり改善する目的で開発されたということで、その実証データに基づいて作られたと聴きましたが、したがって、主目的は「脳機能の低下防止」であって、「脳力向上」は副産物(上がれば儲け物)であると考えるのがちょうどいいと思っています。

今のところ、この手帳のイチバンの効果は、毎回の食事を記録しようと思うようになった、ということのようです。

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気まぐれ更新連載「私のマイ中国語会話ブーム」その3 さて、ここであえて趣向を変えて「脇道」にそれます。 

さて、ここであえて趣向を変えて「脇道」にそれます。

元々の動機が、

「ラニューベアーズに代表されるチャイニーズ台北や北京五輪を経て国際経験とプロ意識に目覚めたチャイナスターズのスター選手たちが、中日ドラゴンズ主催試合の終了後に、お立ち台で話される中国語の生の声をダイレクトに理解するために、今から準備を始めよう」

というものだったので、チャイニーズ台北という漢字が主流の国なのに、何故「ラニュー」という変わった名称の球団なのかということを、Wikipediaで調べてみました。

***

La Newベアーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加盟団体 中華職業棒球聯盟
創設年度 2004年
フランチャイズ 高雄県鳥松郷
本拠地 高雄県立澄清湖棒球場
収容人員 35,000人
親会社 La New
監督 洪一中
タイトル リーグ優勝:1回
(優勝年度) (リーグ戦)2006年

La Newベアーズ(La New熊、ラニューベアーズ)は、台湾の中華職業棒球聯盟所属のプロ野球チーム。台湾大聯盟から中華職業棒球聯盟に移った前身の「第一金剛」が身売りとなり、現在のチームとなった。チームカラーは緑。

親会社は靴製造業の「La New」。現在打撃コーチとして巨人に在籍していた呂明賜が在籍している。

***

つまり、親会社は靴製造業の「La New」とあるように、“La”というのはどうやら冠詞のようで、この「物語」の「エピソード0:ラニューの復習」

http://ryuunosu.cocolog-nifty.com/blog/cat5124629/index.html

で、私が言い間違えて、ラ・ムーと電話口で言ったことは、あながち大きな間違いではなかったことになります。

ところで、当時「猫も杓子もロックバンド開始宣言症候群」が猛威を振るっていた芸能界で、生き馬の目を抜くショウビズ界でこのままトップアイドルとしてサバイバルしていくことに人一倍敏感だった菊池桃子が結成した謎のロックバンド、「ラ・ムー」ですが、私はこのバンド名のいわれは、超古代文明マニアが特に喜ぶ「ムー大陸伝説」にあるのではないかと睨んでいます。

ムー大陸は、特に男子の超古代文明マニア(もちろん、私もその中の一人に含まれかもしれませんが、私の場合は、オタクと呼ばれるほどの知識がないのが玉に瑕です)が特に引き寄せられるテーマです。

ひょっとしたら、その層の開拓を目指して菊池桃子がその名前をバンド名(ただし、「ラ・ムー」(Ra Mu)という呼称は大陸そのもののことではなくて、ムー大陸にいたとされる神官に使われた言葉だそうで、さらにマニアックなわけですが)に冠したのか、あるいはそういう事務所の方針だったのかもしれませんが。

なお、ムー大陸については、現在では、その存在を主張したジェームズ・チャーチワードの「創作」ではないかという説が有力です。

これも、過去のいろいろな“とんでも本”を読み漁るとともに、Wikipediaの「ムー大陸」でその一端に触れると理解が早いかもしれませんね。

ところで、私は果たして「ムー」という“大陸”が実在し、なおかつ、そこに高度な文明が存在していたかどうかについての確信は持てないのですが、ある番組で、「あ、これこそ『ムー』だったのではないか!」と思わず叫んでしまった記憶があります。

それは、なんと「皆様のNHK」が製作した非常に学術的で真面目な内容の番組でした。

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かなり寂しい「ばんえい競馬、廃止へ 帯広市も断念」のニュースが

かなり寂しい「ばんえい競馬、廃止へ 帯広市も断念」のニュースが入って来ましたね。

http://www.asahi.com/national/update/1127/HOK200611270001.html

というのは、スカパーの「Ch.795 懐かし音楽★グラフィティTV/keiba」

http://search.skyperfectv.co.jp/prog/channel/795.html

では、懐かし音楽(という割にはかなり直近の90年代までの音楽をも含んではいますが)を、当時の映像とともにBGMやBGVとして流しっぱなしで聴けるので、数年前から愛視聴していましたが、このチャンネルの名前が示すように、「懐かし音楽と競馬中継の相乗り番組」で、昼間が主に競馬の実況中継で、夜が懐かし音楽という構成でした。

元々はノスタルジーあふれる60年代から80年代頃までのミュージック視聴が目的でこのチャンネルを契約したのですが、ある時深夜にテレビをつけたまま眠りに就いてしまい、翌朝が休日だったためか昼頃から競馬の実況中継が始まり、チャンネルをそのままにしてなんとはなしに、帯広でやっている「ばんえい競馬」というものを初めて映像で観たのですが、これが私の好奇心を異様にそそる内容だったのでした。

レースについての知識は、「ばんえい競走 Wikipedia」等で確認していただくとして、その面白さは、一度は映像で観ていただかないとなかなか伝えることが難しいのですが、まずは文字情報でなんとか伝えてみようと思います。

まず、通常の競馬と同様に、それぞれのレースに出場する競走馬がパドックで巡回します。(私は、馬券は買いませんが、レースを観たりするのは結構好きです)

その際、競走馬はそりを引かずにパドックを闊歩するわけですが、テレビでしか観たことがないので、その大きさを実感していませんでしたが、件の朝日新聞の記事から引用すると、

***

ばんえい競馬は明治末期、北海道開拓を支えた農耕馬の力比べを楽しんだことから始まったといわれている。体重がサラブレッドの2倍もある輓馬(ばんば)が数百キロの鉄のそりを引き、200メートルの直線コースで二つの坂を越えて競う。馬力や持久力が勝敗を分ける世界で唯一の競馬で、04年に北海道遺産に選定された。

***

とあり、サラブレッドより遥かに大きな体躯をした馬種とのことですから、実物に接したらさぞかし圧倒されてしまうのではないかと思いますが、テレビで観る限り、ばんばはちょっと逞しい競走馬という程度の印象でした。

そして、パドックでの巡回による馬券購入者のための「馬定め」がひととおり終わると、やがて、通常の競馬レースと同様に、レース直前にファンファーレが鳴り響き、出走馬のゲートインが完了した直後にゲートが開くと、色とりどりの勝負服に身を固めた騎手を乗せた重い鉄製のそりを引きずった競走馬が一斉に勢いよく飛び出し、第一関門の「丘」を楽々とクリアして順調にレースが進んで行くのですが、ここから、このレースの本当の見どころが始まります。

なんと、今まで快調に先頭を切って走っていた馬が、第二関門の「丘」の手前で、その心理的な圧迫感のためか突然立ち止まったりしてしまうのです。

この光景を初めて観た時の驚きは、まさに、筆舌に尽くしがたいというのがぴったりでした。

そして、急に一時停止した先行馬が白い息をハアハアと吐きながら呼吸を整えたりしているうちに、他の馬は、先行馬を追い抜いたはいいが、「丘」の途中でスタミナが切れたのか立ち往生してしまったり、また別の馬は牛歩戦術のようにスローモーションでしか坂を登ることができず四苦八苦してしまったりと、およそ我々が普段見慣れているスピード感あふれる近代競馬とは別次元の競馬が展開されるのでした。

その光景をひとことでいえば、まさに“修羅場”という言葉が最も相応しく、騎手がいくらムチを振るっても一歩も先に進まずとうとうレースを脱落してしまう馬もいれば、大部分の馬が最後の「丘」に対して苦心惨憺しているシーンが毎回観られます。

しかしそんななか、ある一頭の馬が意を決したかのように、騎手の“愛のムチによる激励”に応えて最後の力を振り絞ってなんとかゴールインすると、多くの馬たちもそれに引きずられるかのように次々とゴールインするという、何ともいえない感動を、レースを観ているものに与えてくれるのでした。

ところが最近は、「Ch.795 懐かし音楽★グラフィティTV/keiba」の番組表を見ても、「ばんえい競馬中継」の予定が入っていなかったのでどうしたのかな、と思っていたのですが、とうとう廃止になるというニュースを聴いて、かなり寂しい思いにかられましたね。

いわば、これまで北海道日本ハムファイターズを支えてきた小笠原(北海)道大選手が、諸事情で北海道を捨てて東京に「戻る」のと同じような寂しさとでもいえましょうか。

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で、この「超人ハルク」テレビ・シリーズの放映終了後に知ったのですが

で、この「超人ハルク」テレビ・シリーズの放映終了後に知ったのですが、

主演のビル・ビクスビーは、「超人ハルク」が放映されるかなり前、たぶん1970年代初めの頃だったと記憶しているのですが、「ザ・マジシャン」というテレビ・シリーズの主演を務めており、当時私もそのシリーズを結構気に入っていて、毎回楽しみにしながら観ていた記憶があります。

「ザ・マジシャン」で主演したビル・ビクスビーの役どころは、プロのマジシャンでありながら名探偵よろしく、次々と自身に降り掛かってくる難事件を、自分のマジック・テクニックで華麗に解決していくという、いかにもベトナム戦争“敗戦”前の、自信溢れる強いアメリカを彷彿とさせる雰囲気を漂わせた主人公を、なかなか洒脱に演じていましたね。

したがって、「超人ハルク」のテレビ・シリーズを観ていた当時は、そのやさ暮れた風貌の主人公が「ザ・マジシャン」の主演俳優と同一人物だったとは全く気付かず、後でそのことを知り、そのあまりの“変身”振りに「まさか!(incredible!)」と、思わず叫んでしまった記憶があります。

ところで、この哀愁ロードムービー版「超人ハルク」は、同世代人にも隠れたファンが多く、このブログの元リンクサイトの管理人、東山にしこさんも熱狂的なファンであったとのことです。

ただし、彼女の場合は、緑色の怪物を目撃して、それが変身したデイビッドの仮の姿なのではないかという推理のもとに、デイビッドの行方を執拗に追跡する新聞記者マクギー(劇中のデイビッドの決めゼリフ、「僕を怒らせるなよ、マクギー君! 大変な事になるからな!」は、当時から翻訳調の面白名セリフとしてかなり有名でしたよね)の大ファンだったそうですが。

何でも、テレビ・シリーズの放映当時には、友人の妹さんと競作で、「超人ハルク いろはカルタ」まで作ろうとしたそうです。

その中の代表的な傑作を2つばかりご紹介すると、

友人の妹さん作が、

「す」……すべってころんでハルクに変身

にしこさん作が、

「へ」……変身だ ビル早くどけじゃまになる

というものだったそうです。

***

と、ここまでは非常に微笑ましいエピソードでしたが、その後日談を調査したら、少々悲しい結末に出会いました。

私のおぼろげな記憶では、テレビ長編シリーズは、最終回近くになって、中国系の人たちでしたか、東洋的な精神コントロール法を実践するグループと出会い、そこに活路を見出したデイビッドがやがて彼らの協力を得て、いよいよ長年の「カルマ」から脱却できるかと思われたその時に、やはり何らかの邪魔が入り、結局はその夢破れ、再び当てのない放浪の旅を続けるのだった……というところで終わってしまったように記憶しています。

その後、続編を望むコアなファンの声に応える形で、「特番」的な内容のスペシャル・ドラマが数本製作されたそうですが、1993年に発売された「超人ハルク 最後の闘い」(原題:the Death of the Incredible Hulk)にて、文字通り、悲しいドラマの結末を迎えたようです。

そして、主演のビル・ビクスビーも、惜しくも1993年11月21日に、末期ガンのために他界されたとのことです。

「超人ハルク 最後の闘い」では、ビル・ビクスビーは主演と監督の両方を務めており、ここからは私の勝手な推測ですが、たぶん、ビルは自分が余命いくばくもないことを悟った末、最後の力を振り絞って、この作品の完結=ハルクの成仏を実現させようと、「最後の闘い」を敢行したのだと思います。

病に蝕まれながらも、心血を注いでハルクの呪われた宿業を解き放つことに成功した彼の追悼曲には、あの物悲しいピアノの旋律が響く “Lonely Man Theme :From "The Incredible Hulk"” が最も相応しいといえましょう。

合掌。

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もう、かれこれ4年以上の日本ハムファイターズ公式ファンクラブ会員

もう、かれこれ4年以上の日本ハムファイターズ公式ファンクラブ会員でもあるので、誰はばかることなく、本日東京ドームで開催された、アジア・シリーズ決勝戦「北海道日本ハムファイターズ対ラニュー・ベアーズ戦」で、ファイターズを応援できる身なわけです。

がしかし、9回表にファイターズの絶対的守護神マイケル中村が、ベアーズ最後のバッターを打ち取って、ファイターズのアジア・シリーズ・チャンピオンが確定し、東京ドームのライト側外野席から色とりどりの紙テープがグラウンドに一斉に投げ込まれるのを一塁側内野席から目撃したまさにその瞬間に、もう既に遥か昔のことのように感じられたあの時の記憶がフラッシュバックしてきました。

すなわち、今年の10月10日にこの地で行われた「讀賣ジャイアンツ対中日ドラゴンズ戦」でのセ・リーグ優勝の瞬間に、自分がレフト側外野席から紙テープをグラウンドに投げ入れた当事者であった記憶が蘇り、ちょっと複雑な心境に陥りました。

思い起こせば、この試合の延長12回表の一死満塁から福留の勝ち越し打とウッズのグランド・スラムが飛び出し、ドラゴンズの勝利が九分九厘確定した時に、レフト・ポール際で応援していた私の背中をポンポンと叩いた、見知らぬドラゴンズファンから「これ、使ってください」と、手渡されたドラゴンズ・ブルーの紙テープをスタンドに投げ入れた瞬間こそが、今シーズンの私にとっての至福のひとときであり、今から考えると、その紙テープとともにドラゴンズに関する全ての幸運が流れ出て行ってしまったようにも感じられました。

そういえば、紙テープを投げるなんて行為は、高校の文化祭で「クラス対抗のど自慢大会」に出場したクラスメートに対して、紙テープをステージに投げ入れて以来かもしれないなあ、と思い起こしながら、この、少々ほろ苦い感覚はいったい何なんだろうという思いに駆られていました。

言うなれば、学生時代に、中日竜子さんという、クラスの高嶺の花にダメ元でアタックしてみたところ案外脈があり、途中まではいい線行っていたのに結局はうまく行かず大失恋して極端に落ち込んでいたところ、日公闘士子さんという、昔から近所に住んでいてあまりに身近だったので恋愛の対象外だと思っていた女性から、突然「本当はずっと好きだったのよ、あなた」と告白され、つい心の癒しを求めて何となく付き合い始めたら、あれよあれよという間に結婚にまで話が進み、ふと気付いたら、結婚披露パーティーの席上で仲間から「よかった、よかったね」と祝福されてはいるのだが、今ひとつ実感が湧かず、「果たしてこれでよかったのか」と自問自答している、そんな心境が一番近いような感覚に襲われましたね。

それはまるで、ユーミンが作詞・作曲して、三木聖子に提供した「まちぶせ」という名曲の、待ち伏せされた側の男のような心境ともいえますし、もっといえば、三木聖子に提供した「まちぶせ」が、アルバム収録時にはさしたる脚光を浴びなかったのに、その後、それをカバーした石川ひとみが歌ったら大ヒットにつながり、「さすがはヒットメーカーのユーミンだ!」ともてはやされて面映い思いをしたユーミンの心境か。

はたまた、「イチゴ白書をもう一度」という曲は自分にはふさわしくないということで、当時は少々マニアックな印象が強かったバンバンというフォーク・デュオに提供したところ、曲を提供したことをとっくの昔に忘れていた頃にバンバンがその曲を大ヒットさせて、その後ヒット記念ということで開催された“凱旋コンサート”で、その曲をバンバンと一緒に歌うはめに陥ったユーミンの心境にも通じるものがありますね。

さて、そんな一言では説明のつかない心境で東京ドームを後にして、最寄駅の水道橋駅近辺を流れる神田川に架かる橋のたもとに近付くと、「小笠原選手の残留要請署名にご協力を!」という横断幕を掲げる一団に遭遇し、今年はいいことづくめだったはずの北海道日本ハムファイターズ・ファンの人たちも、実は手放しでその幸福に浸ってはいられない現実に直面しました。

「今、赤信号で立ち止まっている熱狂的日ハムファンのあなた、是非ともご署名を!」と促されて、日本ハムファイターズ公式ファンクラブ会員特典で獲得したファイターズ印のジャンパーを着ていた私としては、心の中で「もちろん、小笠原は、讀賣にも中日にも移籍しないで日ハムに留まるのが一番なんだけれどね」と、かなり打算的な思考を働かせながら、彼ら彼女らの熱意に負けて署名をした後に、家路に着いたのでした。

これで、今年のプロ野球シーズンは本当に終了というのをまさに実感した一夜でした。

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それぺな問題です。

それぺな問題です。

   世界三大横恋慕ソングといえば、

「愛しのレイラ」
「悲しみのアンジー」

と、あと1つは何でしょうか?

チチチチ、チチチチ  チーン

はい時間です。

正解は、ユーミン作詞作曲で石川ひとみが歌ってヒットした

「待ち伏せ」

でしたが、

三木聖子に作ってあげたのが正解でした。   

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